人物で見る龍馬 人物相関図

土佐藩
山内容堂 土佐藩第十五代藩主。公武合体派で安政の大獄で蟄居を命じられる。後藩政に復帰し、尊王攘夷派の武市半平太らを弾圧した。1867(慶応3)年、大政奉還を徳川慶喜に建白する。 関連スポットを見る
岩崎弥太郎 三菱財閥の創業者。土佐藩地下浪人の子として生まれる。龍馬より1歳年上。登用されて、土佐藩の物資を売りさばく開成館の長崎出先機関「土佐商会」で活躍。海援隊の経理も務める。 関連スポットを見る
武市半平太(瑞山) 龍馬とは遠縁にあたり、幼少期より親しかった。江戸では士学館で修業。土佐勤王党を結成し、一時藩政の実権を握るが、公武合体派の前の藩主・山内容堂が藩政に復帰すると投獄された後、切腹を命じられた。 関連スポットを見る
後藤象二郎 土佐藩上士の家に生まれ、山内容堂に用いられる。江戸では開成所(前身は蕃書調所)で蘭学や砲術を学ぶ。容堂らと土佐勤王党を弾圧。龍馬の「船中八策」をもとに、大政奉還論を山内容堂に進言する。
山本琢磨 龍馬の従兄弟。江戸で修業中に「時計事件」に巻き込まれて発覚。龍馬らに助けられて江戸を出奔。その後箱館でロシア正教会のニコライ神父に出会い洗礼を受ける。日本人初の司祭となり、ニコライ堂の建設に尽力する。 関連スポットを見る
板垣退助 土佐藩上士の家に生まれ、後藤象二郎とは幼なじみ。幕末は倒幕運動に参加する。明治以降は、議会設立に尽力。土佐で立志社、次いで全国組織の自由党を結成して、自由民権運動の中心人物となる。 関連スポットを見る
長崎 亀山社中・海援隊 長岡謙吉/近藤長次郎ら 1864年、龍馬が長崎・亀山で設立した貿易会社。日本初の株式会社と言われる。龍馬が土佐脱藩を許されて後は、土佐藩に属し海援隊と名前を変えた。亀山社中には龍馬と仲がよかった近藤長次郎が参加していたが資金流用問題等で切腹させられてしまう。海援隊では、土佐藩出身の長岡謙吉らが活躍した。謙吉は龍馬の「船中八策」を洋上で書きとめたといわれる。龍馬の死後、海援隊の二代目隊長になる。 関連スポットを見る
お龍 龍馬の妻。龍馬が京都の寺田屋で幕府方に包囲されたときに“風呂から裸で飛び出して危険を知らせた”というエピソードが有名。龍馬死後は再婚して横須賀に住んだ。横須賀市大津の信楽寺に墓がある。 関連スポットを見る
  • 薩摩藩 西郷隆盛 明治維新の立役者のひとり。龍馬は、西郷と長州の桂小五郎らが会して成立した薩長同盟に貢献した。西郷は、戊辰戦争では官軍の参謀となり、幕府軍を追いつめる。江戸城総攻撃の前に勝海舟と会談して、無血開城を実現させた。 関連スポットを見る
  • 坂本龍馬 土佐藩の郷士・坂本平八の次男として生まれる。脱藩して、藩にとらわれず、日本が新しい近代国家となるために、尽力。しかし慶応3(1867)年、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される。享年33歳。 関連スポットを見る
  • 江戸 千葉道場 千葉定吉/千葉重太郎/千葉佐那 龍馬は江戸での剣術修業に際し、北辰一刀流・千葉周作の弟の千葉定吉の道場学んだ。定吉の長男の重太郎は龍馬の友人で、娘の佐那は、龍馬の婚約者であったと言われる。 関連スポットを見る
  • 長州藩 桂小五郎 後の木戸孝允。薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と言われる。江戸の士学館で学んでいたときに、武市半平太とも交流する。龍馬の斡旋により1866年、薩長同盟を結ぶ。 関連スポットを見る
  • 吉田松陰 勤王論者。ペリーが2度めに浦賀に来航した際には密航を企てて失敗し囚われる。出獄後、故郷の萩で松下村塾を開き、高杉晋作や久坂玄瑞を育てる。安政の大獄で再び獄につながれ、伝馬町の牢屋敷で刑死する。 関連スポットを見る 伊藤博文 長州藩に生まれ、桂小五郎の下で尊王攘夷運動に参加する。明治維新後は、大日本帝国憲法の起草に関わる。初代内閣総理大臣。 関連スポットを見る アメリカ合衆国 マシュー・カルブレイス・ペリー アメリカ東インド艦隊提督。フィルモ米大統領の親書を携え、“黒船”4隻で1853年、浦賀に来航。幕府に開国を迫った。翌年ふたたび来航して条約締結を迫り、幕府は屈して日米和親条約を締結した。 関連スポットを見る
  • 幕府 勝海舟 幕末に旗本の子に生まれる。蘭学や兵学を修め、幕府に登用される。勝に弟子入りした龍馬をかわいがり、神戸海軍操練所の設立を手伝わせるなどする。“江戸無血開城”に際しては幕府側の代表者として西郷隆盛に対峙した。 関連スポットを見る 井伊直弼 近江彦根藩主で、1858年に幕府の大老となる。同年、“安政五か国条約”に調印、将軍後継者を徳川家茂に決めるいっぽう、反対派を安政の大獄で弾圧した。1860年、これを不服とする水戸・薩摩藩の浪士らに、江戸城桜田門外で暗殺された。 関連スポットを見る